ひとりの歩みからみんなの歩みに
ボランティア活動の実践記録と提言・第3集


この資料はともしび基金の果実でつくられました

1979年

神奈川県社会福祉協議会
神奈川県ボランティア・センター

”き”のやまい

ボランティアサークル「とんぼ」

小川美紀雄

 

 


 二分脊椎児のA君,昨年の運動会では車イスにのっていた。「来年は,僕、ぜったいに松葉ヅエで歩けるようにして、運動会にくるんだ。」と言っていた。今年、A君は車いすにのってきた。ところが、競技がはじまると松葉ヅエで走りまわった。
 ボランティアのB君の友達だったCさんは、ちょっとリハビリハイキングをのぞくつもりで参加した。ところでCさんは今や主要メンバーの一人だ。
 二分脊椎児のD君にとって、初めてのキャンプは、心にのこった。絵を書くと必ずテントが森林の中にどっしりとかまえている。D君にとって、ナンバー5のテントは可能性である。
 人恋しくて、焼きつくような思いがする。きびしい入試やつまらない会社に負けそうになると、あの子たちを思い出す。思いだして負けるものかと思うのではない。会いたいと思うのだ。そして僕も、”き”のやまいにかかっているのではないのかと。

 



註1 二分脊椎児のこと
 主に脊椎下部のある場所の骨が開いたままで生まれた子ども。そのために髄液神経等が背中にこぶのようにとび出したままである。
 医師はこれを手術により脊椎の中にうまく入れ、なくすことができるか、手術の如何にかかわらず、部位から下は麻痺していることか多い。
 その部分の高さにより、その子の症況か違ってくる。下半身が動かない。感じない。排泄困難、そして水頭症など。どれか一つ、二つの症況をもって、或いは、全部をもってうまれてくる。
 肢体不自由中3%の発生率(S.47年調べ)。二分脊椎は保育器の発達によって比率が高くなった。
助かるようになったのだ。そのために成人は未だ少数。これから成人だ。
 先輩のいない、体の不自由な、しかも常に合併症に脅やかされている子ども達には、遊び相手や、話し相手になる若い仲間が必要なのだ。(小川・記)

 


 

″滝″というボランティアコーナー
 県善意銀行最後のボランティアキャンプセミナーが終って一週間すぎた。通称「善銀ゴロ」といわれる僕達数人は、この企画に主体的に加わるようになって何回目になるだろう。色々な連中が加わっては、去っていく。
 すくなくともこの五年の間に、県内にちらばるボランティアの交流学習のための連絡会が出来てはつぶれ、出来てはつぶれた。「明日を作るボランティア連絡会」「サークル拠点」など。名前があり、活動はあったが、実体はなかった。よびかけの声は高くあげたが、参加がなかった。笛ふけどおどらず。
 ボランティアは、線香花火のように各地で出来、パッと光をはなって消えていく。あとにもえかすすらのこらない。それこそ美徳だと人は言うだろう。しかし、あとにのこったニードはどうなる。日曜日ごとにパッと線香花火が散って、それのくりかえし。すこしも進歩がない。後続するボランティアに経験と考えが伝えられない。孤立しているから、活動の悩みがあっても、他のグループではとっくに解決しているのに、とどまったままである。そのうち消える。あとにのこったニードはどうなる。そればかりか、連帯の輪がひろがらないから、いつまでたってもニードの暮しはよくならない。
 今日も、ボランティアコーナーでその話が出た。そしていつものようにコーナーは九時で閉まってしまい、夜の街にほうり出された。小料理屋の゛滝″の二階に行く。残業でおそくなった連中が待っていた。
 理屈として、ボランティアの連帯は正しい。しかし、ボランティアの今の考え方は、そこまで来ていないのではないか。加えて、僕達の力量もある。いくらボランティアのためのボランティアだとはりきっていても、実体がないのだから、それは「ないものねだり」でしかないのだ。
 としたら、今僕達がすることはその原点にたちかえり、僕達それぞれの根っこであるボランティア活動を日常とすべきだ。抽象的なことではなく日常の中にある実感を一番とすべきだ。
 そうして、こうやって僕達が集う目的は、その実感を出しあうことにしよう。おたがいを深めあうのだ。
 ボランティアであることであつまるのではない。人間であることの、正悪すべてを分がちあおう。なぜなら、僕達は、ニードと接する時、ボランティアという立場でいたらいつまでたっても、人間的な交流はできない。ニードだからボランティアなのではなく、会いたいから会いたいのだ。西洋からかりてきたボランティアの考え方という重箱のすみをつつきあってもなんにもならない。それより、ニードもおれも人間で、おなじ矢で串ざしになっているんだと、おれの恋人はかわいいだの、仕事がつまらないとわめきちらすだの、おまえの性格が気に入らないだの、夜の街のドブ板をつきやぶり、魂までころげ出てもいいじゃないか。みんなの心を大切にするんだ。心からつながるには自分がどうなったらいいかすこしづつ実感の世界でたしかめていくんだ。
 十一時をシオに帰路につく。

 

神大寺とんぼセンター
 あれから早いもので一年すぎた。
 マキが親をはなれて団地の一角にうつり住んだ。ボクとマキはバンドの仕事をしており、食えないのでアルバイトをして食いつないでいた。
 マキ-さびしがりやなんだろう。どんな友達をもしつこく大切にしていく。彼の心の中から発するものが、ボク達の主題であった。どんな仲間でも心を大切にしていこう。性格、素質、やりたいこと、やってきたことを十分に出し合って行動していこう。
 どういうわけか、一年前、活動はしない、交流や学習のサークルだと言っていた「とんぼ」は、テヅカ君が「運動会」のボランティアを手伝ってくれとたのまれて、手伝いならいいだろうとオーケーを出した。ところが、ふたをあけてみるとテヅカ君はこない。ほとんど「とんぼ」がやった。
 その運動会のおわりに、一番ボランティア経験の長いイマイが、「来年もまたやりましょう。」と、言ってしまった。
 あとで、理論的に言って、とんぼの方向とちがうぞとゴネルボクに、「しょうがねえじゃねえか。ミキオだってわかるだろ。下半身の不自由なあの子たちをこの場で見せられてみろ。それに運動会なんか、学校じゃ参加させてくれないんだぞ。」
 そこでボク達は、『二分脊椎児との交流実践という共通の体験の場で、おたがいにもちよった会の悩み、ありかたを、みがきあっていくことが大切だ。二分脊椎児のニードを大切にしていくことによって、自分達の活動しいては自分の行動をもみなおせる」と方向を変えることにした。つまり共通体験の中でそれぞれの世界を知り、みがくことができるようになった。
 ボク達はリクツがさきにあってリクツにしばりつけられること、会の規約にしばりつけられて、正しいこと、今、新しくおこっていることがらに対し、行動できないことをきらう。だから規約なんてない。会費もない。ボク達母体の仲開か友達を呼んで、その友達が友達を呼んで、大きな仲開か出来ていく。
 今日も神大寺団地のマキの六畳には、二十人もの友達があつまっていた。酒をのみにきたのだ。飲むだけ。ほかにはない。これがマキの感じ。
 話は自然に、「第二回二分脊椎児大運動会」にうつっていく。二分脊椎のことをみんなが知らないで、運動会の時に仲開か知らないことによって事故でもおきたらどうするんだ。これで企画がたてられるのか。考えてみれば昨年はずいぶん無謀なことをしたものだ。
 なにかの時に、学習会をひらくことにした。そのうちに、とんぼの一年をふりかえることになった。交流を深めていくうちに、僕らは自然に二分脊椎児と友達になった。友達になったということは、おたがいに助けあうことだ。「とんぼ」の中の友達、「とんぼ」と二分脊椎、「とんぼ」と親、みんな有機的な友達関係があって、自分を主張し、おたがいを変えていく。二分脊椎児が「おんもに出たい」「生きたい」と願うその気持の流れを、ボク達は感じる。感じたボク達は(ボランティアとしてではない)友達として、なにをしようかと、ボク達の力で今なにが出来るのかと考える。こどもの可能性のいぶきを感じるボク達は、自分達の可能性に気づかされ、それを信じる。危険もあるだろうが、ここにとどまっているよりはマシだ。
やらないよりやったほうがマシだ。あとは動いてから考える。
 その動きだ。どう動いているのか。一人のリーダーのもとに一糸乱れずに動いているのではない。もっと勝手なやり方だ。まず一人ひとりのやりたいことが大切だ。運動会がある。みんな勝手なことを言いだす。みんなが同じ気持になるまで言いあう。スケジュールと備品が用意される。あとは本番。本番もまた勝手だ。総合司会だけがはっきりしていて、あとは勝手に動く。ただ、友達であるという気持は忘れずに。ボク達は,型のきまったもよおしはきらいだ。なぜなら、そこにはそのもよおしがあっても、人間がうごめいていないからだ。ボク達はどんなことが起こってもうけいれていけるフトコロをもちつづけたい。のびやかな生命のいぶきは、きめられたことを超える。それが可能性であり、逆に危険性でもある。ボク達はハプニングと名づけた。ハプニングに遊ぶことも、可能性のひらける道である。人と人との核融合によるエネルギーがハプニングだ。原子が問題だと思う。その人そのひとが、どういう周期で、どういう軌道でまわっているのか。ボク達はそれをとめやしない。
 性格の話になった。ここがいい、ここかわるいという話ではない。本人を前にみんなが本当に感じていることを出しあう。現にこうしてある現実に、目をそらすのではなくて、たくさんの目でみつめていこう。自分のことから、友達のことから目をそらして社会福祉がどうの、こうの、と言ったってなにも生まれない。はじまらない。
 十二時もまわって、寝るやつは寝た。帰るやつも帰った。ボクもふくめて、それからしばらく飲んでいたら、ふいにドアーがあいて、帰ったはずの佐藤君がもどってきた。
「家まで帰ってドアーをあけようとしたら、なにか大切なものをわすれてきてしまったようで、もどってきた。」
と、そそくさとおしいれにはいって寝てしまう。
 ここは神大寺団地。巨大なコンクリートのかたまり。コインロッカーのようにならべられたドアーの一つ。嬰児がひっそりと時を持つ。


仲手原御用邸
 考えてみたら、全国初だった二分脊椎児のキャンプがおわった。と同時に来年の準備がはじまった。すぐに第三回の運動会がある。
 今年の二月ボクと今井は、神大寺団地にひっこした。魂がボク達を時間的にひきはなしていることをゆるさなかったのだ。それまでだって、三日とあけずにみんな神大寺に通った。佐藤もいりびたり、エーチャンも、ア二キも、木村も、だれもかれもいりびたりだった。通りすぎた友達もたくさんいた。そして求めるものもたくさんあった。ボク達には時間のくぎりをつけずに話せる空間が必要だった。そして引越した。
 どんな気のあう仲間でも、生活するとなると色々な問題がおきてくることも知った。そしてみんながきて、自分の時間がとれなくなることも知った。しかし、それよりも一緒であることの方がすばらしかった。自分が出せるものを出しきって一緒になることが大切だった。この生活の中で、ボク達がキャンプをやりたいのだから、二分脊椎児だっておなじ気持だという発想がうまれた。発想が現実ばなれしているだけに、とまどいながらもおもしろみがあった。親の会に話したら意外にも簡単に「やりましょう。」
という言葉がかえってきた。こまったのはボク達だった。二分脊椎児のキャンプなんて、前例がないのだから、どうしたらいいのかわからなかった。
 三月のボランティアキャンプセミナーの主題は、「障害児キャンプは出来るか、出来ないか。」となった。いつも、とんぼのセミナーは、講師など呼ばない。自分達のかかえでいる可能性をみつめることがセミナーとなる。言いかえれば一人ひとりが生きてきたこと、これから生きることが、講師なのだ。第一回目のセミナーは自己表現の場として、どんな話でもいいから、一人十分間のスピーチを三日間聞いた。政治から映画の話まで色々だづた。第二回目は、仲間とはなんだとして、グループを四つに分けて、十分間スピーチをし、グループの中で、それを討論する。四つのグループの味のちがいが、ガリ版印刷で刷られたニュースにあらわれていた。
 個人から仲間へ、仲間からグループヘ、そして、第三回目のセミナーはグループからサークルヘと進む。「障害児キャンプは、出来るか、出来ないか。」という主題。そしてもう一つ、個性をみとめあうことによってやりたいことをやる。そのことが役割をうむ。そのことは正しいが、しかし役割にとじこもることになる。そこで役割とはなにか。これが問題であった。
 分科会は三つにわかれた。子どもにつくレクリエーションの分科会。生命の危険に対処する救急の分科会。生命の維持をたすける裏方の分科会。こうやって「とんぼ」の役割は整理され、自分の合った役割につく。
 セミナーでわかったことは、役割は役割としてあるが、役割にとじこもってはならない。役割じゃないから、あいつらにまかせておけばいいという考え方は危険をさそう。役割とは、役割をすすめることによって、そこをつきぬけ、いつも全休をみつめて動くこと、要は、ハプニングをどこからでも見つめていることであった。
 そしてメインテーマの「出来るか出来ないか。」は「こわい」「わからない」「やりたいけどわからない」だった。そこから、やってみなければわからないはずだ。こわいのは二分脊椎児のことを知らないからだ。学習をすれば、出来ること、もっとも危険なこともわかるはずだ。
 八月、キャンプ。一日目はボランティアの最終的な研修と、こどもにとっての危険場所をすべてチェックしていく。下半身の不自由な子どもたちに近づいてチェックするために膝をひもでゆわえて歩く。そこには新しい世界があった。小石も大きくみえた。
 家族がくる。一泊二日など、あっという間だ。それにしても、心には強くのこる。帰りぎわ、車にのる子は、だまって流れる涙をこらえていた。
 仲手原に帰ってすぐに運動会の準備だ。
 今日、わかったことがある。親の会の会長が、ボク達と連絡もとらずに運動会の会場をとってしまった。そのことは正しいことだが問題である。親の会と「とんぼ」は友達である。運動会やろうか、と言われて、やろうと答えるという関係があるはずだ。会場をとりましたので運動会をやりましょうというのでは、まるでボク達は親の会の活動の下うけではないか。
ボランティアはホウシするのではない。友達である。とするのなら、人格としては対等だ。ボクは役割として、会長をどなりつけた。
 「おちょくるんじゃネェ!!」
 これで関係がまずくなるのなら、それだけのものだったのだ。ところがより親近感が深まった。
 仲手原はきたないところだ。今井はきた時、ダニに全身をやられて、天然痘のようにボツボツだらけだった。それだけ、ボク達は情熱をもっている。

冒険と危険
 どうなって行くのだろう。五十三年四月、僕は仲手原をとび出した。仲間の意識の流れの中にいることはすばらしい。しかし、自分の世界が薄くなっていく。人間には色々な部分がある。その部分があってこそ、交流が深まる。僕は、勉強したいと思った。一人の時間がほしくてたまらなかっのだ。それがゆるせる関係になっていた。時間的な問題はなく、どこにいても、なにをしていても、おなじ気侍ちでいられるはずだ。そう思えた。
 第二回二分脊椎親子キャンプでもそれは感じられた。一年ぶりに会ったこども、運動会、もちつき大会、リハビリハイキングを通してキャンプにきたこども、初めて会ったこども、どれもキャンプにためしにきたことは同じだ。自分がどう生活してきたか、どう生活していくかのぶつかりあいが、かぎられた二泊三日という時間の中で、時間をこえ、可能性につきささる。
 三月のセミナーで考えたことは、こどもの可能性の場を一緒につくり出してあげよう。しかし、冒険には必らず危険がともなう。これは結論が出ていない。活動をとおして、それは明らかになるだろう。
 キャンプでは、キャンプ場はできるだけ安全な場所とし、河原、ハイキングは冒険の場所とした。
 松葉ヅエで、車イスで、人が一列でしか歩けない山道をとおって竹林をぬけ、滝でひとやすみ。滝の上から頭を出し、のぞきこむこどもたち、帰り道で笹をみつけ笹船をつくる。松葉ヅエで山道をのぼりきる。その手に笹船をもっておりてくる。河原で笹船をながす。なにがおこったのだろう。
 コンクリートの中にとざされた町にとじこもらされているこどもたち。このこたちが、おとなになったら、ボク達は、それでも友達でいられるの
だろうか。
 ボク達の可能性とこども達の可能性のぶつかりあい。ボク達一人ひとりの生活と、こども達一人ひとりの生活とのぶつかりあいによって、そのまわりが遅々たるものではあっても進んでいく。
 それがサークル「とんぼ」である。